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40代半ばで発達障害のため看護師を諦めて、障害者雇用での就職を目指す私の趣味のプログラミングや英語学習、Macやらの情報について書いているブログです。

私のプロフィール

私は30代半ばで発達障害と診断されるまで、自分は普通の人とそんなに変わらないのだと思って生きてきました。中学では壮絶なイジメに合い勉強どころではなく、イジメが酷かった男性が少ないデザイン科のある高校に進みました。そのおかげで高校ではイジメもなく楽しく過ごせましたが、無理して明るく振る舞っている自分に疲れて、家族にあたってしまい家族関係は悪くなってしまいました。もともと絵がそんなに上手だったわけでなく一浪して美術大学に入ったけれど、誰でも出来るようなアルバイトでも苦労してしまい長続きせず。親に経済的に頼るようになって親とは勉強で使う機材の費用の事でしょっちゅうもめていました。そして自分が当時としては珍しくPhotoShopに詳しかった事を活かしてアルバイトをやっと長続き出来るようになると、上手くアルバイトと勉強での制作活動を両立出来ずに大学を留年してしまいました。私はそこで自分の人生が終わったように感じて、そして親と経済的な事で揉める事にも疲れて、自分でお金を稼いで、稼いだお金で勉強してデザイナーになってやるという前向きな気持ちで大学を中退してしまいました。その後、唯一長続きしたアルバイトを継続、しかし一人で孤立して自分勝手に音楽を聴いたりしながら仕事をしている姿に周りの信用を失い6年程働いて止める事になりました。その頃の私は大学時代の辺りにオープンしたICCというNTTの私設美術館であったメディアアートの世界への憧れが捨てられず、アルバイト時代にIllustratorやInDesign, LightWave3D, Painter, VectorWorks(Mac向けCADソフト)などを習得していましたが、更にプログラミングをやりたいという思いを捨てられず、ちょうどその頃Flashのプログラミングを使ったウェブ表現が注目を集めている事もあり勉強時間が欲しくアルバイトをするのを止めてしまいました。そこから英語と数学を学びながら、1ダース程のプログラミング言語に触れて使えるようになっていきました。英語は中学の教科書をCDを聞いてひたすら音読するところから始めて610点となりました。しかし私の理想が高すぎたのでしょう。プログラミングで良い作品が作れずに私は行き詰まってまま30代を過ぎてしまいました。数社のFlashのプログラマの募集にも応募しましたが全部落ちてしまいました。もうすぐ30代半ばでどこでも良いから働かなければとジョブカフェとハローワークに行き見つけたのが海苔の加工と倉庫管理の仕事でした。ロードバイクの趣味にもこの頃出会ってこのまま長く働いていけるのかと思った矢先、私は正月休みに出掛けた自転車旅行で左の橈骨と尺骨をカーブを曲がり切れずコーナーポストにぶつけて粉々に骨折してしまったのでした。その頃、一生海苔屋をやっていくのなんてつまらない何か仕事はないかなと見ていた某掲示板で30代から目指しても看護師なら一生仕事に困らないという書き込みを見ていました。そして事故した事をきっかけに看護師の仕事を見て、こういう仕事も悪くはないと思い始めました。その後、その仕事は二度も手術入院があったため退職勧奨を受け入れ退職せざる得ませんでした。そして私は自分の向き不向きも考えずに考えずに看護学校を傷病手当をもらっている期間に目指しました。そして元々英語が出来た事と生物1だけというテスト範囲だったため、あっさり看護学校に受かってしまいます。ところが今度はそこで年齢の大きく違う同級生とトラブル、酷い言葉を浴びせられ学年中に噂をながされ練習する相手もいなくなって休学せざる得ませんでした。そして迎えた翌年の実習では教員とのコミュニケーションが上手くいかず実習を落とし留年してしまいます。NHKで発達障害が大きく取り上げられるようになったのがこの頃で、私も自分は発達障害なのではないのかとこの頃から疑い始めました。そして留年ギリギリの出席日数の日、忘れものをして家に取りに帰ってしまい学校に間に合わない事が分かった時に私はもの凄い鬱で学校に行けずに三度目の留年をします。二度目の留年を経験してから精神科には鬱状態で受診するものの何の診断も下りず、コミュニケーションの問題だと言われカウンセリング専門の施設に通っていました。三度目の鬱はとくに酷く私は再度発達障害を疑い精神科を2カ所受診しました。一度目の病院で受けた発達障害のスクリーニングの結果を2カ所目の病院で見てもらうと、医師はこれは親を呼ぶまでもない、確実に発達障害でしょうという事を告げたのでした。私はここで始めて長年の苦労の原因が分かって肩の荷が下りた気がしました。そして5年半かけて精神科のサポートとカウンセリングを受けながら卒業した看護学校を卒業した後にやっと看護師となったのでした。それともう一つ、人生で2番目に長く続いた仕事、コンビニのアルバイトもここで経験しました。私の発達障害が少なくともコンビニのバイトは続けられないぐらい酷くはない。きっと何か可能性があると信じられるようになる経験でした。ところが看護師になっても自分の鬱状態になる傾向は収まらず。自分に合った薬も見つからずに職場を転々とするようになりました。最後から2番目に働いたデイサービスでは、自分よりもずっと若い介護職員からあなたは看護師に絶対に向いてないから看護師は辞めて別の仕事をしたほうがいいよと忠告される始末でした。私はそれでも給料と職の安定を簡単に手に入れられる看護師にもう一度だけ挑戦しようと決めて、次の職場に期間限定のパート採用で働く事にしたのでした。ところがここでも退職勧奨に合い、合理的な理由がないのでお断りする事を告げるとパワハラまでされました。通院していた病院から適応障害(うつ状態)の診断書をもらい休職せざる得ませんでした。東京都の労働相談所に会社との交渉の仲介に入ってもらい、その後に傷病手当の退職後の継続が可能になる1年間の会社の在籍が可能になりました。コンビニのアルバイトなら続いた私がこれだけ苦労するという事は、看護師は発達障害をもつ人にはよっぽど向いてない職業なんだと私は悟りました。そう考えて他に看護師と同じような稼ぎのある仕事である翻訳者を目指して勉強を始めました。しかし2022年3月から傷病手当をもらいながら、6ヶ月の勉強したTOEICの点数は720点でした。その後2ヶ月ほど英文解釈と翻訳の基礎を勉強して、翻訳者会員サイトのトライアル問題に11月から取り組み始めましたが、元々の英語力が低いため十分に正確な翻訳が出来ていません。そんなおりに、母をガンで失いました。今は父親と二人で生活しています。このまま勉強を続けていいのか、自分の身の丈に合わない目標でいつ実現して、父親を安心させられるか先がみえない不安が私を襲います。でも希望を失ったら、生きていく最低限の力も失ってしまうことに気づきました。どんなに不安定になっても、翻訳者になるという希望が私には必要なんだと私は考えています。

趣味について

趣味は登山と写真、ロードバイクですが、現在は経済的に苦しい状況にあるの登山はほぼお休み中です。

コメントについて

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Twitterとの違いについて

私はよく変わっているねと言われて育ちました。看護師として働いてみてその変わっている部分が大きな障害物となって私を苦しませました。Twitterではそうしたネガティブな部分についても正直に書いていますが、ブログでは何がなんでも翻訳家を目指している自分を発信していけたらと思っています。生まれもった特性は変わりませんので、その特性にあった職業を選んだほうが絶対に自分にプラスですから。

For Enlglish language users

I write this blog only in Japanese.If I would have to both English version and Japanese version, It take a lot of  time to do. Although I write a blog only in Japanese, I welcome to comment like what it means in English or something like that. Don't hasitate to ask information in English.